My Note 「結」について
2002.2.18

 縄文時代、木の実を主体に肉・魚介類を食べていた採取・狩猟民族である日本人ですが、すでに集落のようなものを作り、共同生活をしています。山へ行って木の実を拾ったりするだけなら1家族だけで暮らせますが、獣を狩ろうと思うと集団でないと無理です。ここで、木の実や貝なら「これはオレが拾ったんだから僕んだもんね」と言えるのですが、集団でないと狩れない獣はそうはいかない。つまり、衣食住のうち最もプリミティブな「食」が自分(というか1家族)だけでは成立しないのです。もし着物に獣皮も使っていたのなら、「衣」もそうなります。つまり、「自分・自分の家族だけでは自分の生活が成立しない」、要は一人じゃ生きていけないのです。「共同」というより「共生」です。
 縄文時代後期か弥生時代に稲作が始まって定住するようになると、もっとこれがはっきりしてきたんだと思います。この田んぼはみんなのもの。とれたコメもみんなのもの。縄文時代の主食である木の実は家族単位で所有したかもしれませんが、主食がコメになるとこれも共有。個人財産といえるようなものはなかったのではないかと思います。
 この稲作が暮らしを支えているという状況がその後もずっと続くんですが、田んぼの所有者が現れたり、コメが自分のものになったり年貢として税に使われたりしても、今度は物理的に一人じゃとてもできない。屋根の葺き替えも物理的に大人数でないとできない。農地改革で晴れて田んぼが「ウチのもの」になっても、この点は変わりません。「こういうものはみんなのものなんだ。こういうことはみんなでするもんなんだ」という、大昔からの考え方・ルールもあったでしょう。
つまり、「1人1人は精神的にも経済的にも独立している。そして互いにそれを尊重し、認め合った上で互いに助け合い共存する」というものではなくて、「1人じゃやれないからみんなに助けてもらう。1人じゃ生きていけないからみんなでよりそって生きる」というものなのだと思うのです。その中で個人や家族といった単位、つまり「個」は、それ自体では成り立たない(生きられない)脆弱なものなのです。「共同」・「共存」ではなく「共生」だと思うのです。「みんなで助け合ってる」というユートピアっぽいものじゃなく、もっと原始社会的というか、弱々しい感じです。
 また、「結」の具体的なものとしては、農作業を共同でやる、家屋の大補修を共同でやる、冠婚葬祭をみんなでやる、などがありますが、これらは、みんなが同じような生活をしていること、同じような価値観を持っていることが前提になります。
 だから、みんながいろいろな仕事につくとともに、社会が自分のムラだけで完結しない大きなものになって、また機械などにより農作業も省力化され、冠婚葬祭も金さえ出せば専門業者がとりしきってくれるようになったとき、物質的に隣近所と共生する必要がなくなったとき、結はなくなっていったんだと思うのです。そしてそれが価値観の多様化につながるのだと。この場合、結はもはや便利なものじゃないもの、不要なものとして社会から消えていったともいえます。
 もともとは必要だったし価値もあったんだろうけど、社会が変わった今は不要になっている。だけど習慣とかある種のルールだけが、しがらみとか因習などとして残存している。それが「結」の現実の姿ではないかと思うのです。
 PTAなんかをやっていると、市街地のドライな人間関係の中、村部のまとまりがうらやましく思えもするのですが、誤解を恐れずに言うと、古い「結」の残存部分、「荒魂」のごくソフトになったものがそのベースにあるんじゃないかと思ったりもするのです。
社会システム上、「結」を作る必要がほとんどないといえば遊牧民系でしょうか。モンゴルなんかをみると、「結」に相当するものはないみたいですね。そのことと超破壊的な騎馬軍団である匈奴やチンギスハーン軍団とは関係ないのでしょうけど。
 でも、広大な土地を「共有」している、「土地はみんなのもの」という考えがあるという意味で、ここにも共存・共生というものはあるみたいですね。

 誤解のないように付け加えると、「おかげさまで」や「生かされている」という考え方は、「結」と関連はあるでしょうが、セットになっているとは私は思っていません。もともとアニミズム的な自然共生感をもっていた日本人に、仏教なり儒教が取り入れられた中から出てきたんじゃないかと思っています。儒教の「仁」と「結」は似ているのですが、個々が独立しているかどうかという点で異なっているのではないかと思うのです。
 そういう意味では、前に私が言った、「結から支配的な部分・マイナス部分を除き、基本的な発想を「独立した個人をお互い尊重しあい、公民意識をもった人々が社会を共有する」ことに置いて・・・・」という「結」は「仁」に近いのかもしれません。いいかげんだなぁ。反省。
 「独立した個人」がないと、今度は自由が危うくなってきます。また、「人まかせ」にもなり、自ら動き出すということができなくなります。それどころか、「結の残存部分」がマイナスに働き、せっかくがんばろうと思っている人に、「いらないことをするな」、「これまでと同じでいいじゃないか」と水をさすということにもなりかねません。
 日本古来の「結」そのままではいけないと私が思うのは、そういう点なのです。

 でも、なんか生きていくためにみんなが寄り添っている弱々しいような「結」のことを考えると、はるか太古から地球に生まれては死んでいった無数の生き物達のことを考えてしまいます。私は学生時代に地質学を専攻していたためか、何百万年とか何億年というスパンの中で、わらわらと生まれてはちょっとの間うごめいて、すぐに消えてしまうアブクのような、個々は本当に刹那なんだけど無数にいることで全体としてはびっくりするほどしぶといモノ、として生物というものをとらえてきました。種の保存とかそういった抗いがたいものに突き動かされて、わらわらと動き、食い、子孫を残しては消えていくものです。
 人間の、他の生き物とのかかわりの最も根源的なものは「食べること」だと私が思っているのはこのためなのですが、ついでに言うと、人間同士のかかわりの根源的なものは「種の保存」、要は子育てとセックスで、「食べる」と合わせて、生き物としての自分の中からの「生き延びろ。自分がダメなら全体として生き延びろ」という命令が、最も根源にあるモノだと思うのです。これって、手塚治さんの「火の鳥」のテーマそのものだと思ってるんですけど・・・・

 そして、極論すれば、人間という生き物が「生き延びる」ために自然と選択したシステム、それが「結」の原型だったのではないでしょうか。
 現代は、もはや自分だけで生きられる、だから「結」は不要だ、みたいになってるんですが、そうではなくて、というか、古来からの「結」はそうかもしれないけど、共同体のようなもの自体が不要なのではなくて、社会単位が集落から地域、さらに日本、さらに世界へとでっかくなってることと、複雑化・分業化が進んでいることで、実はやっぱり自分だけじゃ全然生きられないということがわかりにくくなってるだけだと思います。だから、新しい「結」、個々が確立し、それを尊重した上で共存共生する「結」・「仁」というものが必要なんだと思ってるわけです。


あんぱんまんさんの掲示板で「結」について議論したときのレス(掲示板にこんな長文レスするか?)です。
今読んでも「うげ」となる長々とした、またわかりにくい内容ですが、今の私の持論である「カラッとした結」というものを考え始め、それを言葉にまとめてみた最初の文章です。(2004.9.20)