技術者倫理エピソード 「簡単な保険数理さ」 〜フォード・ピント事件〜

 技術者倫理に関する代表的なエピソードをご紹介しましょう。1960年代のフォード・ピント事件と、それをモデルにした映画です。

フォード・ピント事件
 1960年代後半、フォード社は、軽量廉価のサブコンパクト車「ピント」を設計した。
 フォード社は、日本製小型車との競争のため、通常3年半かかるところを2年半で生産に持ちこんだ。この短期間の枠では技術内容よりもスタイルが優先され、その結果、ガソリンタンクの最適位置は後部車軸とバンパーの間と決められた。この構造では、差動歯車ハウジングのボルトの頭が露出しているため、後ろからの衝撃でタンクがそれに向かって前方に動けばガソリンタンクを刺し通すかもしれなかった。
 ピントはその時点で適用される全ての連邦安全基準に合格していたが、数年後に発行する新基準に合格しないことを技術者たちは知っていた。実際、新たに定められた時速20マイル(32km/h)試験では、12回の後部衝突のうち11回が不合格で、衝突によりガソリンタンクが破裂し、車体は炎上した。
 フォード社は、タンクにゴム製シートを装着したり、タンクを後部車軸の後ろから上部に移動して衝撃テストを行った結果、両方とも試験に合格した。しかしこれら改善には、1台あたり11$が必要であった。
 フォード社の自動車安全担当取締役は、「衝突事故がもたらす燃料の漏洩と火災による死亡事故」という文書を作成した。ここでは次のように計算された。
  (改善費用)販売台数1250万台×単位費用11$=約178億円
  (社会的利益)死傷者の出る火災180件×(死亡による損失20万$/件+負傷による損失67千$/件)+車両炎上2100台×車両損失700$=約64億円

       ※死亡者の損失は、将来生産額から保健・法廷費用・葬式代・犠牲者の苦痛と災害補償までを含み国家高速道路交通安全管理局の調査により計算された。
 この結果をもとに、フォード社は設計改善費用がその社会的利益を上回ると判断し、そのまま販売を続けた。
 1972年、追突されたピントが発火・炎上、運転手が死亡し同乗者が大火傷を負った。この事故をめぐる製造者責任訴訟で、フォード社はガソリンタンク炎上の危険性を知りながら、経済的収支計算結果に基づき販売を続けたという事実が、退職技術者らによって暴露された。このため陪審は、現実の損害賠償350万$に1億2500万$の懲罰的損害賠償を命じた。しかしこれはあまりに高額であったため、後に裁判所は350万$に減額した。

映画「訴訟」
 アルゴ・モータースという会社が85年型メリディアンという車を販売した。この車は、事故を起こすと炎上することが多く、欠陥車ではないかとの疑いがあったが、原因究明はできていなかった。
 リサーチ担当者のパベルは、上司から「テストは忘れてよい」と言われていたが、単独でいろいろ実験した結果、構造上の問題で、ウィンカーを出して左折時に衝突すると、連鎖反応により燃料タンク内のガソリンに引火して爆発することを発見した。
 一方、アルゴ・モータースが依頼した「計算屋」と呼ばれるリスク・マネジメントの専門家は、次のような計算をした。
  (リコール費用)欠陥車台数17.5万台×修理費300$=5千万$
  (事故損失)事故確率1/3000台、事故件数150件×訴訟で相手方が勝った時の費用20万$=3千万$
つまり、リコール費用がその社会的利益を上回ると判断された。計算屋が「簡単な保険数理さ」というこの計算結果によって、パベルが提出した書類は闇に葬られ、その後彼は退社した。メリディアンはそのまま販売され、アルゴ・モータースはリコールしなかった。
 その後、実際に事故は150件ほど起こり(皮肉なことに計算屋の見込みが正しかったことが証明された)、アルゴ・モータースは多額の懲罰的賠償金を支払うことになる。
※主演のジーン・ハックマンが巨大企業の悪に立ち向かうが、企業側弁護士は娘だったという、「自動車事故の訴訟をめぐって、敵味方にわかれた父娘弁護士の争いを描く」設定の映画です。

功利主義と費用便益分析〜誰が幸せになれるのか?
 この事件が技術者倫理の事例としてよく取り上げられるのは、フォード社の行った費用便益分析です。これは許されることなのでしょうか。
 フォード社の計算は、リスクアセスメントとして行われたものであり、計算の中身自体は妥当でありましょう。まさに「簡単な保険数理」です。これは費用便益計算であり、ごく一般的に行われています。保険をかける場合は、保険業者が費用≧便益とならない範囲で保険料を決めます。
 費用便益分析は、倫理学の功利主義(帰結主義的倫理学)の判断手法の1つですが、このエピソードでフォード社や「計算屋」が行った計算は、功利主義の費用便益分析(効用計算とも言われます)なのでしょうか。もしそうであれば、フォード社の行動は倫理的に正しいことになります。
 功利主義では、倫理的に正しい行動は、最大多数の最大幸福を実現する行為であるとされます。ところが、フォード社の計算(映画での計算屋の計算はさらにあこぎなものになっています)は、「企業にとっての最大幸福」を追求しています。功利主義による適切な費用便益分析をするなら、死者と負傷者に加え、すべての製品購入者の被る不便を考慮し、さらには販売代理店の被る被害なども考慮し、これらの要求すべてを社会的利益として計上すべきです。
 倫理学の功利主義を誤って適用した事例として、日本の談合が上げられるかと思います。談合グループは、「共存共栄」を社会的必要性の根拠にしていました。よって、その共存共栄を乱す者は「他人の迷惑を顧みない」よくない行動、つまり非倫理的であるとされていました。談合をすることで共存共栄が図れ、みんなが幸せになる、これのどこがいけない?というわけです。しかし、功利主義でいう「みんな」は世の中の「みんな」です。談合グループや同業者、地域業者などの限定された枠の中での最大幸福ではなく、世の中全体での最大幸福のために談合は是か非かという視点で判断する必要があります。
 つまり、功利主義的な考え方をするのであれば、
   フォード社はユーザー全員や販売店、さらには事故に巻き込まれるリスクを負う一般人など、その車にかかわる全ての人の最大幸福を考えたか?
   談合業者は、自分たちだけでなく、国民みんなにとっての最大幸福を考えたか?
   経営者は、会社関係者(株主を含む)だけでなく、国民みんなにとっての最大幸福を考えて経営判断をしているか?
   技術者は、自分や自分の関係者、発注者だけでなく、国民みんなにとっての最大幸福を考えて技術判断をしているか?

という尺度で評価されることになります。それを定量化するために費用便益分析が行われるべきなのです。

人間尊重〜命に値段はつけられるのか?
 功利主義と並ぶ倫理の理論が、カントの思想である人間尊重倫理です。その中に、人権という重要な考え方があります。
 おそらくほとんどの国において、国民は法律により基本的人権を保障されています。その中には生きる権利が含まれます。あるいは健康に生活する権利が含まれます。
 そしてそれは、いくら出せば他人のその権利に干渉できるというものではありません。すなわち、他の社会財に換算することはできても、それと交換するようなことはできません。人権は、当人にとっては権利、他人にとってはその当人に対して負う不干渉の義務です。
 権利を有する者は、たとえば保険によって自分の命に値段をつけることはできますが、他人はそうする権利はありません。つまり、フォード社が命の値段をつける行為は、計算・試算すること自体は構わないでしょうが、その結果、車の修理費用や会社の損益など、他の社会財と比較して優先度を決めるようなものではありません。つまり、フォード社はユーザーの生命に対する権利に干渉したといえるでしょう。

インフォームドコンセント〜保険とどう違うのか
 「命に値段をつける」というと、保険が思い出されます。
 フォード社と違うのは、保険は自分の命の値段を、保険業者の提供する情報をもとに、自分自身で決めているということです。すなわち、自分自身の生命の持つリスクに対して、定量的なリスク移転を行うこということに関して、十分に知らされた上の同意を与えているのです。つまり、インフォームドコンセントが成立しており、これに関しては公衆ではなくなっているのです。
 この点で、フォード社の行為とは全く異なります。

ホイッスル・ブローイング〜技術者にできることはなかったのか
 映画におけるパベルはメリディアンの持つ欠陥について、警笛鳴らしあるいは内部告発はできなかったのでしょうか。フォード社の、ピントの欠陥を知っていた技術者はどうでしょうか。
 ディジョージは、内部告発の道徳的正当化の5つの条件をあげています。これは、いわば内部告発チェックリストといえるでしょう。
(1) 一般大衆に深刻かつ相当被害害が及ぶか?
(2) 上司へは報告したか?
(3) 内部的に可能な手段を試みつくしたか?
(4) 自分が正しいことの、合理的で公平な第三者に確信させるだけの証拠はあるか?
(5) 成功する可能性は個人が負うリスクと危険に見合うものか?
 ディジョージによれば、(1)〜(3)が満たされれば内部告発は道徳的に許されます(内部告発してもよい)。さらに、(4)と(5)も満たされれば内部告発は道徳的に義務となります(内部告発すべきである)。
 (1)は確実に満たされているでしょう。(2)も自動車安全担当取締役が知っているのですからクリアされたと思っていいでしょう。(3)はどうもやっていないようです。(4)については、フォード社は欠陥の存在自体は認識し、そのリスクの顕在化する確率や被害規模もそれなりに求めた上で費用便益分析によりピントの欠陥を隠蔽するという経営判断を下しているので、告発する内容は「ピントには欠陥がある」ことの暴露でしょう。欠陥の存在については、性能試験担当技術リーダーなど、そのような立場にある技術者がいた可能性は高いと思われます。(5)については、このようなフォード社の経営判断を考えるとかなり厳しいものがあったと思います。
総合すれば、(3)の試みを行うべきであり、その結果受け入れられなければ、警笛慣らしをしても倫理的にはとがめられないし、(4)をクリアした上で、勇気を出して(5)も乗り越えて警笛慣らしをすべきであろう(そういう形でできることはある)と考えることができます。
 なお、「訴訟」よりもホイッスル・ブローイングについて考えるきっかけになりそうなのは、「チャイナ・シンドローム」でしょう。原子炉の異常振動と、検査の手抜きという2つの状況証拠から、原子炉がメルトダウンするリスクがあることを察知した技術者が、コントロールルームを武力占拠してマスコミ公表を行おうとし、最後は殺されてしまいます。異常振動は発生しましたが、メルトダウンは起こりませんでした。異常振動の原因や機構に関して定量的な情報がなかったため、メルトダウンは定量化できないリスクだったのですが、定量化するため手抜き検査部分をきちんと検査することは会社から許可されなかったのです。それどころか会社から命を狙われ、また運転開始が秒読みだったことから、究極の判断として不法行為に及んだのでしょうが、それが自分の射殺につながってしまいました。この映画はフィクションですので(スリーマイル島原発事故をもとにしてはいますが)、事例といわけにはいきませんが、考えるきっかけにはなると思います。