●JR尼崎脱線事故(2005年) | |
事例に関するWikipedia記事 | |
安全確保より企業利益を優先させたという「反・公益確保」の典型的な例である。 それとともに、この事故は、JR西日本に「安全文化」が育っていなかった(あるいは存在しなかった)ことを示していると思われる。スペースシャトル・コロンビア号の空中分解事故は、チャレンジャー事故から立ち直ったかのように見えたスペースシャトル事業に大きな打撃を与えた。調査報告では、「NASAには安全文化がなかった」ことが指摘された。チャレンジャー号の事故は、技術的ウィークポイントの是正という、表面的な対応に終わってしまった面が多分にあったということであろう。 チャレンジャー事故は信楽鉄道事故に、コロンビア事故は尼崎脱線事故にオーバーラップする。信楽事故の教訓は生かされず、利益優先のもと、スピード超過の慣例化や、それを邪魔するATS設置の先送り、そして何より「安全優先」「公益優先」という意識を社員に教育していなかったこと、これらはJR西日本が安全文化を持っていなかったことの証左である。 そして、事故調査委員会は、「スピード超過」を原因とした。これは、原因ではなく結果である。 「なぜその交通事故は起きたのですか?」 「タイヤがスリップしたからです」 こんな原因調査で納得する人がいるだろうか?誰だって 「じゃあ、なぜスリップしたのですか?」 と聞くだろう。そこでスピードを出しすぎていたとか、雨が降って路面が濡れていたとか、いろんな原因がわかってくる。さらに掘り下げれば、会議に遅刻しそうになって急いでいたとか居眠りしていたとか、さらに一段深い理由が出てくる。さらに掘り下げれば、仕事が過密で時間的余裕がなく睡眠も不十分だったとか、根本的な原因もみえてくる。 それと同じである。なぜスピード超過をしたのかという原因の掘り下げがなされていないのである。日勤教育とかいろんな状況がわかっていて、運転士の心理状態も誰でも想像がつく中で、安全軽視・利益優先の会社の姿勢、すなわち安全文化の欠如が時間的余裕のなさと運転士の異常な追い詰められた精神状態を生み、それが無茶なスピード超過を生み、その結末として、車体が浮いただの片輪走行だのという現象が起きたのは明白なのに、である。 スピード超過の原因まで掘り下げなかったことで、尼崎脱線事故の教訓は生かされずに終わる可能性が高くなっている。信楽がそうであったように、JR西日本は喉元過ぎた頃からまた「カネのためにぶっ飛ばす」日々に戻り、残念ながら安全文化は生まれない可能性が高いといわざるをえない。 このことから、「失敗に学ぶ」という言い尽くされてきた言葉の重みを改めて感じざるを得ない。そもそもマネジメントというものは、ミスやクレームなどの失敗の原因を突き詰めることからスタートしてシステムの改善、スパイラスアップを期するものである。それを怠り、目の前の被害者に対する陳謝だけをして後は時間の経過を待つのであれば、失敗を教訓に安全に関する改善をするという社会的責任を果たそうとしていないと取られても仕方があるまい。 |
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●六本木ヒルズ回転ドア事故(2004年、判決2006年) | |
事例に関するSafty Site記事 | |
安全性を上げると、すぐに停止してしまう(誤動作が多くなる)ため、誤動作しないところまで安全性を下げた結果、いざというときにも停止しなかった事故である。 すなわち、利益のために安全性を軽視したという例で、公益(利用者の安全確保)よりも自社利益を優先した事例である。事件発生自体は2004年3月と古いが、2005年9月30日に裁判の判決が出ている。すなわち、「公的な評価」が下されている。 判決は業務上過失致死だが、その理由が、同様の事故等のデータ収集や分析を怠っていたか、あるいは危険性を認識していながら、経営利益を優先させていたという森ビル被告の行動が非倫理的と認定されたというものである。つまり、公益確保より経営利益を優先させていると、事故に至った場合、厳しい判決が出されるという事例である。 また、製造者である三和タジマの企業責任にも言及があった。こちらはPL法を頭において読むとよく理解できる内容である。 詳細は関連トピックに掲載してあるので(こちら)、参照いただきたい。 |
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●美浜原発死傷事故(2004年) | |
事例に関するWikipedia記事 | |
検査を外注丸投げにしていたことと、その外注が替わったときに引継ぎが不十分だったことから、二次冷却水の管が限界状態にまで肉薄となっていることを誰も認識せずにいて、さらに原発停止期間をできるだけ短くしたい電力会社意向で、運転したまま定期検査準備をしていたところ、ついに管が破れてしまった事故である。 これはたとえばアウトソーシングにおける品質管理の問題がある。 そして、万一の事故に対する安全確保と利益確保のトレードオフの中で、安全リスクを大きくとったという問題がある。 そして、二次系統だからといって検査をおろそかにしたこと、「二次系だからカタストロフには至らない→重要ではない→多少安全を軽く見ても大丈夫」という発想、安全体質の問題がある。これは、東電のシュラウドのデータ隠蔽なども同じ側面を持っているといえよう。 結局のところ、JR尼崎事故と同じく、安全<利益とした会社の安全体質の問題であるし、同時に、三菱自動車リコールなどと同じく、コンプライアンス(法令遵守)の問題でもある。以前の雪印食品などもこれに当る。 また、この事件は、スペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故とも通ずるものがある。それは、企業の論理・経営者の論理を優先するあまり、企業の社会に対する責任、あるいは企業モラルが後回しになっていたという点である。 関電は、経営者も含め、危機やリスクがあることを把握してはいなかったであろう。その点において、Oリングの問題を認識した上で「危ない橋を渡る」ことを決めたモートン・チオコール社とは大きく違う。しかし、運転中に定検準備をするように、つまりリスクを大きくするほうに作業手順・内容を変更したこと、その理由が企業の営利追及であったこと、これは確かである。 |
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●産業事故〜日航連続トラブル(2005年) | |
15年度に頻発した産業事故は、最近では事故には至らないまでも、日本航空などで多発しているようである。これには、2つの問題が隠されていると思う。 1つはマニュアル不実行である。JCO臨界事故もこれであった。 作業手順マニュアルがいくらきちんと整備されていても、現場がそれを実行しなかったらミスや事故の発生は防げない。技術者として、自分の勝手な判断や価値観でルールを無視することは厳禁である。(これは、ルールに盲従せよと言っているのではない。おかしければルールを改善すればいいのである。しかし、ルールが変わるまではこれを遵守すべきである。) 2つ目はナレッジマネジメント、すなわち知の管理である。 不況で熟練技術者が多く会社を去る中、その人たちが持っていたノウハウ・スキルが退職とともに失われていき、残ったのはマニュアルエンジニアばかりという中で、計器による検出やマニュアル手順通りの検査で見つかる異常を、さらに前の段階から察知するということができず、ちょっとした見逃しやマニュアル無視が大事故につながっていったと考えられる。 「知」には、形式知(マニュアル化・コード化できるもの)と暗黙知(ノウハウ・スキルのようにマニュアル化・コード化するのが容易でないもの)がある。この暗黙知を形式知に変える(知の移転)、すなわちマニュアル化をせずに熟練技術者のノウハウ・スキルを捨ててしまった結果であろう。 日本航空で多発した不具合は、ハインリッヒの法則における「ヒヤリハット」の典型例であろう。事故に至らなかったからと原因究明をせず、体裁だけ取り繕うならば、大事故がそのうち起こる可能性は大である。 |
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●姉歯建築設計事務所による構造計算偽造問題(2006年) | |
事例に関する国交省HPのページ | |
偽造そのものは、どうやら姉歯元建築士の「単独犯」らしいということだが、2つの問題を見出すことができる。 一つ目は、姉歯元建築士の行動である。もちろんこれは倫理に大きく反するのだが、どのような点で倫理に反するかというと、3義務2責務に当てはめれば、公益確保と信用失墜行為に相当すると思われる。 自分の利益のために多くの公衆を危険な目にあわせる行為をしたのである。なお、耐震性の有無について数字が一人歩きしている面もあり、実際には震度5くらいで崩壊するものではないという話もあるが、これは「だから取り壊さず補強で済ませられるのではないか」といったようなことに至る内容であり、姉歯元建築士の行動をいささかも弁護するものではない。 また、この事件の後、一級建築士という資格自体が世間からうさんくさいもの、裏で何をしているかわからない奴らみたいな目で見られるようになってしまった。信用の失墜は多大であったといえる。 二つ目は、検査である。 ISO9001などのTQMでは一般的だが、ミスが発生して顧客からクレームが来た場合、 「なぜミスが発生したか」 とともに、 「なぜミスが発見されずに納品されてしまったか」 を突き詰めないと片手落ちになってしまう。 まして今後の日本は、「自由と選択、自己責任」の時代に入っていく。市場原理の中での競争淘汰によって品質を確保するという方向性がますます強まる。 このような中、姉歯的行動は今後いろんな分野で発生するであろう。 そのため、そういった不正・不良なものを供用に至らしめることのないよう、しっかりした検査が必要である。特に公共財については不可欠である。 一方で、品質確保法の施行に伴い、検査の民間委託は進むと思われる。ここに、コストと品質のトレードオフがある。この問題の解消法としては、たとえば3セクや官民協働でLLPを作るなどの「創造的第3の解決法」も見え隠れする。 この問題については、少なくとも耐震偽造とか関係のない罪状で次々に有罪判決を受けていく表面的な事象に目を奪われないようにする必要がある。 |
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●三菱リコール隠し(2004年) | |
事例に関するWikipedia記事 | |
メーカーの利益にとって好ましくない情報を伏せていたため、社会に与える被害が拡大した事例で、フォード・ピント事件やソリブジン事件などと同じタイプである。 公衆の利益よりも企業の利益を優先させたということで、公衆優先原則に反しており、したがって倫理的な行動とは言えない。 |
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●橋梁談合(2005年) | |
事例に関するWikipedia記事 | |
コンプライアンスや公益優先など、様々な教訓を含んでいるが、K会などの結束・締め付けの状況を見聞すると、「自分達だけが利益を得ようとした、功利主義もどき」の例として注目される。 会の「和」を乱す者に対する非難から読み取れる、偏狭で独善的な「正義」は、「共存共栄」という、功利主義に通ずる言葉を用いたことからも類推できる。 功利主義は「最大多数の最大幸福」を求めるものである。ところが彼らのいう共存共栄は、その対象を自分たちメーカーに限定してしまっている。つまり、功利主義っぽくみえるが功利主義ではなく、よって非倫理的である。 功利主義の対象は世の中全体であり特定の利害関係者ではないことがポイントである。「共存共栄」を言う者に対しては、この視点で判断すれば、その行動が倫理的か非倫理的か見極められる。 「自ら律する」ということが社会に対する責務でもあるわけだが、鋼橋メーカーにも、旧JHにも、そういった倫理観はなかった(倫理そのものが欠如しているということではなく、正しい倫理の認識に欠けていた)ということであろう。 もう少し進めれば、これは「地元業者優先」というものにも行き当たる。 たとえば大型量販店が進出し、地元小売業者が危機に陥る。100円ショップが出店して従来の日用品ショップが打撃を受ける。そこで進出を抑制しようという動きが出てくる。ここにおいて、同じ地域に済む人たちの「安いものを買いたい」という当たり前の消費者意識と、小売業あるいはそれにつながる業種の人たちが「食っていく」ことの間にトレードオフが生まれる。 消費者意識をまるで無視して、「地元を守るために多少高くても地元店で買わないと駄目だ」と半ば強制してしまうようなことをすると、当然反発も生まれるわけだが、それは功利主義的な考え方ではないことになる。一部の人の幸福のみを考えると、それ以外の人の幸福を制限する(あるいは奪う)ことになりかねない。この場合は、地元店の人たちの幸福のために、一般消費者の幸福を制限したことになる。 とはいえ、市場主義を振り回して地元店の屍を累々と築けば、これも立ち行かない。攻守逆転しただけである。 ではどうするかというと、日本中の地方都市で行っているように、何らかの折衷案で「共存」していく道を取ることとなる。人数×幸福度を最大にするように努力するわけである。その中で、たとえば大手量販店はテナントや仕入れに際して地元店に配慮するし、地元店は「地元だから」と胡坐をかかずにサービス向上に努める。(もちろん、価格などだけでなく、アフターケアや日常ケアなど地元ならではの価値創出を考える) 建設業界にいまだ根強く残る談合も、世の中全体の幸福(つまり公益)を考えない功利主義もどきや、「地元」を振り回すだけで新しいサービス提供への努力に関する怠慢が、「抵抗勢力」として残っていくであろう。しかしそれでは先細りであり、経営者としては最悪の選択になってしまうのであろう。 |
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●松下ヒーター・パロマ湯沸かし器事故(2006年) | |
松下事故に関するITPro事例データベース パロマ事故に関する朝日新聞特集 |
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石油ヒーターの欠陥で一酸化炭素中毒死を出した松下電器は、テレビCMを取りやめて告知CMに切り替え、さらに回収が進まないと見るや国内全世帯に告知ハガキを出すという対応を行い、200億円ともいわれる費用をつぎこんだ。 この事件を、まず危機管理の視点からみる。 ヒーター部品は下請けメーカーが作っているのであろうが、最終製品の販売者としての責任を取り、隠蔽などもなく、素早い対応だったと評価されている。一切のCMを取りやめたにもかかわらず、松下の売り上げが伸びたことが、企業イメージの損失を最小限に抑えたことを示している。 松下電器は、松下幸之助の「水道哲学」(水道の水のごとく安価で豊富な物資を供給し、楽土を作るのが産業人の目的であり使命である)が有名であり、松下電器という一企業だけでやっていても駄目で、この理念を持った政治家を育てることも必要だというので松下政経塾を作ったりしている(と思う)のだが、企業理念がしっかりしていることは、危機に際しての対応に現れる。 ちょっと古いが、情報漏れと同時に謝罪、即座に活動自粛に入ったジャパネットたかたも企業イメージを損なうことなく、短期的には大損をしただろうが、長期的には損失を最小限にとどめたといえるだろう。 次に危機管理の重要性について考える。 松下電器やジャパネットたかたは、不祥事・事故が発生した時に、一切の隠蔽をせず責任を認め、影響の拡大阻止を最優先することで、経営への影響を最小限にとどめた。危機管理が非常に優れていた例と見ることができるだろう。また、いわゆる危機広報が組織の信頼を保持するということのよい事例でもある。 さらにいえば、危機管理が不十分な企業では、不祥事・事故発生現場から組織トップに至るまでの間に、中間管理職などの判断で隠蔽に至ってしまうことがある。特に危機管理では、現場に近い企業トップ以外の者が意思決定者にならざるをえないことがあるが、不測の事態に直面し多大なプレッシャーの中で意思決定をしなければならないとき、中間管理職が、社会的責任より短期的視野での企業利益を優先してしまったり逃避的行動を取ってしまったりすることは、容易に想像できる。企業理念の浸透だけでなく、実際にどう行動したらいいのか、どのような考え方で行動したらいいのかを、あらかじめ決めておいてやることが、意思決定者に対する、また社会に対する企業責任であろう。 次に、このような視点で、パロマ湯沸かし器の一酸化炭素中毒事故をみてみよう。 パロマは、現在も株式の過半数を創業家である小林一族が保有する典型的な非上場・同族経営企業である。 20年前から一酸化炭素中毒事故が発生していたが、社内やサービス業者向けに注意喚起を行っただけで消費者に対する告知は一切されなかった。パロマは会社や製品には責任はないとしていたが、系列サービス業者による不正改造・製品の安全装置劣化による事故報告が相次ぎ、謝罪に追い込まれた。経済産業省は、パロマに回収の緊急命令と厳重注意を行った。 その後平成19年12月、東京地検は元社長と元品質管理部長を業務上過失致死傷罪で在宅起訴している。 松下電器とパロマを比較すると、企業理念の確立とその浸透、危機管理などにおいて、大きな差があることが見て取れる。特に日本人は潔さを是とする国民性があるので、隠蔽や責任逃れと見られるような行動を取ると、企業イメージは著しく損なわれ、経営打撃は非常に大きくなる。 企業の社会的責任が強く意識されるようになった今日、リスク管理や危機管理を通して、組織の社会に対するスタンス(すなわち理念)を明確にし、組織構成員の取るべき行動を明確にしておくことは、最終的に組織を守ることになる。松下電器とパロマの行動は、このことに関する教唆に満ちた事例といえるだろう。 また、北海道の遺族がパロマを提訴する見込みとなった。これは、「不正改造につながる製品の欠陥を同社が放置していた点などを民法上の不法行為とみて責任を問う」というもので、すなわち「メーカーは欠陥を認識したら放置せず対処する義務がある」ということである。松下は義務を果たし、パロマは果たさなかったということであろう。 |
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●米国産牛肉に危険部位混入・再度輸入禁止(2006年) | |
事例に関する新聞記事例 | |
●内容 米国から輸入した牛肉に、BSE(狂牛病)の特定危険部位である脊柱が混入していたことが判明し、政府は輸入を再停止した。 結局、7月末に安全が確認された施設に限り輸入を再開しているが、マーケットや料理チェーンなどでの販売はほとんどといっていいほど再開されていない。 ●考察(リスクマネジメントの観点から) 結局、リスクマネジメント的に見れば、BSEの危険性など論外といっていいほど低い。米国産牛肉を食べて健康を害する確率は、今日交通事故で死ぬ確率に比べたら問題にならないほど低い。毎日3度3度牛丼を腹いっぱい食べたとしても、BSEになったりはしないだろう。(おそらくその前に別の病気になるだろう) したがって、こんなに低いリスクなのに過剰ともいえる拒否反応があるのは、何らかのバイアスが働いていると見るべきで、それはカタストロフィ・バイアスであろう。 飛行機事故で死ぬ確率は交通事故で死ぬ確率よりはるかに低いにもかかわらず、車には平気で乗れて飛行機には乗れないという、リスクマネジメント的には理解できない行動をとる人が少なくないわけだが、飛行機事故という、自分にはまったく何もできることがなく、ひとたび起こったらほぼ確実に大変無残な死が待っているという恐怖感が、理性的判断をできなくしていると思われる。 この、「そんなことが起こったら確実に破滅だあ」というリスクの過大視がカタストロフィ・バイアスであるが、BSEはこれに「まだ見ぬ(目で見えない)病気への恐怖」というバージン・バイアスも加わっているのであろう。 バイアスは基本的には「取り除くべきもの」ではあるが、リスクという考え方がまだ浸透しておらず、また自己責任という考え方が単なる他人に対する非許容(ゼロ・トレランス)という形で誤解されている我が国社会では、「得体の知れないもの」に対する拒否反応は消えないだろう。 従って、この問題で「技術者として何ができるか」は、信頼できる客観的データを、公平中立の立場で示し、判断は国民に委ねるという立場にとどまるであろう。 ●考察(コンプライアンスの観点から) アメリカは、抜き取り検査と危険率管理で、検査漏れが発生するリスクも見込んだ管理をしている。おそらくBSE発症率も見込んだリスク管理をしているであろう。「科学的管理をしている」と主張する根拠は相応にあると思われる。 それゆえに日本の輸入停止に対する不満はかなりあり、制裁措置を唱える強硬派もいたようであるが、調整を続けて7月解禁に持ちこんだ。 これを好意的に見れば、 ルールに不満があるが、ルールが変わるまではルールに従う という姿勢が評価できる。 対称的なのが原発シュラウドのヒビのデータ隠蔽や、これは技術トピックではないが高校未履修問題などである。 ルールが厳しすぎる・順守が大変だ→裏でこっそり破ろう という発想である。 コンプライアンスは、守るべきルールが楽だとか厳しいとかいった守る側の都合で変わるものではない。ルールが不適当・不合理であると考えればれば、それを変えることには何ら問題はない。ただし、ルール変更が成就するまでは、あくまでそのルールを守らねばならないのである。 |
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●PSEマーク問題(2006年) | |
事例に関するWikipedia記事 | |
●内容 家電用品安全法により、自主検査で安全性が確認された電気製品につけられるPSEマークが、4月から必須になる。大手リサイクルショップは5年間の猶予期間のうちに対応済みだが、中小ショップは対応していないところも多く、混乱を招いている。 ●考察(インフラの観点から) 猶予期間があったのだから、対応しないほうが悪いという説もある。 一方で、 ・社会リスクとしてみた場合、PL法に基づく事故報告は年間50件未満なので、PSEマークを急ぐ必要もないといえる。 ・PL法に基づく責任期間は一般に10年であるし、家電の場合10年程度の寿命があるので、その間はリサイクル使用をすべきではないか。 といったことから、猶予期間5年では短すぎるという措置の不備を指摘する意見もある。つまり、リサイクル電化製品のインフラ的価値を考えると、この措置はちょっともったいなかったんじゃないかということである。 |
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●Winny問題(2006年) | |
事例に関するWikipedia記事 | |
●内容 Winnyによる情報流出が頻発した。 海上自衛隊の機密情報、法務省の受刑者名簿、東京地裁の競売関係者名簿、信金の手形決済情報、岡山県警の捜査情報など。 ●考察(情報管理の観点から) Winnyはもともとファイル交換ソフトなのだが、ファイル交換用フォルダにいれたデータは不特定多数に公開されるという機能を持っているために、2つの問題が生じている。 1つは、今回のような情報流出の問題である。 Winny をインストールしたパソコンが 流出型ウィルスに感染すると、パソコン内のデータをどんどんファイル交換用フォルダにコピーするので、これがどんどん公開されてしまうのである。対策は、流出しては困るデータがあるパソコンには、Winnyをインストールしないことが一番である。つまりリスク回避である。 ●考察(技術者倫理の観点から) 問題のもう1つは、著作権侵害の問題である。 ファイル交換用フォルダに著作権のあるデータを入れておくと、不特定多数に公開されるので海賊版化してしまう。Winnyは匿名性を高くできるので、故意に海賊版を流通させることに使用され、利用者数の急増とともに多くの事件を引き起こし社会問題になり、Winny 開発者である金子元東京大学大学院情報理工学系研究科助手は著作権違反幇助の疑いで逮捕された。 警察側は逮捕の理由はソフトウェアの開発行為を理由としたものではなく、著作権法違反を蔓延させようとした行為にある、としている。すなわち、著作権を侵害する機能を持ったソフトを開発したこと自体ではなく、そのようなソフトであることを知りつつ公開したことで著作権法違反を助長したという点が罪に問われたのである。 一方、ソフトウェアを開発すること自体について違法性が問われたとの認識も広まっている。 高い利便性を持つ製品やツールを世の中にどんどん提供し、便利なものを低廉な価格で利用する世の中にすることは松下幸之助の「水道哲学」に代表される産業界の理想であり、それに貢献することが技術者の使命でもあるが、利便性を高めることで発生する技術上・倫理上の問題に対して、科学者・技術者は無関心であるべきではない。 クルマという便利な乗り物が発明され実用化されたがために命を落とした人はどれだけいるであろうか。 しかし反面、我々は安全性を取るために利便性を捨てることもまたできない。 要は、調和の取れた前進である。「人類の進歩と調和」(大阪万博)、「持続的な発展」(アジェンダ21)に示される理念を科学者・技術者もよく理解し、利便性向上の結果生じる問題点を予見し、その影響を最小限化するように務める社会的義務がある。その点において、金子元助手の行動は倫理的であったとはいえないと考える。 |
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●シンドラーエレベータ(2006年) | |
事例に関する「日経ものづくり」記事 事例に関するWikipedia記事 |
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●内容 シンドラーは、エレベータ制御プログラムにバグがあるエレベータが数基稼動中であることを認めた。特定の操作を行うと、扉が開いたままエレベータが上昇することがあるというものである。ただし、事故を起こしたエレベータにはこのバグプログラムは使われていないので、原因は異なるようである。 ●考察(モラルハザード・システム信頼性の面から) エレベータは、長い歴史を持つ技術であり、基本的なメカニズムはすでに枯れた技術であるとされる。 今回のプログラムの問題は、機械類がコンピュータ制御される時代に特有のものであるといえる。すなわち、セーフティー部分が機械仕掛けであったころは、そのメカが故障することで事故に至っていたが、今はセーフィティーをコンピュータが担当しているために、このバグが事故を起こすのである。 もし、コンピュータ制御に切り替えることで、機械的セーフティーを取り外していたとすれば、これは一種のモラルハザードといえる。(注:最近はモラルハザードという言葉が「モラルの喪失」という意味で使われることが多いが、私はそれは誤用だと思っている。誤用がまかりとおると誤用でなくなるのかもしれないが・・・・) コンピュータがバグっても、何らかの機械的セーフティーによって事故リスクを下げるという取組み(冗長化によるフォールトトレランスあるいはフェールソフト)が必要だろう。 ●考察(組織の危機管理の観点から) シンドラーは、「謝罪する」ということを随分後まで引き伸ばした。アメリカに代表される「訴訟社会」においては、安易な謝罪は責任を認めたということになり、多大な賠償を求められるという事情があるためであろう。しかしこの判断が企業イメージを大きくダウンさせたことは間違いないだろう。潔さを是とする国民性も考えれば、企業の危機管理体制としてはあまり良い対応だったとはいえない。 |
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●東京大停電(2006年) | |
事例に関する横浜地方海難審判理事所事件広報 | |
●内容 旧江戸川にかかる送電線の下を通過しようとしたクレーン船が、安全を確認せずアームを上げて送電線に接触、東京・千葉・神奈川の3都県で140万世帯に及ぶ大規模な停電が発生した。 ●考察(安全管理、システム信頼性、リスク管理の観点から) 直接的な原因は、安全管理手順を励行していなかったことに尽きる。現場が近くなったらアームを上げるのが習慣とのことであるが、それならそれで安全確認をおろそかにしてはいけない。 被害を拡大させたのは、2系統の電線がダウンして停電に至ったこと、停電範囲が大規模だったこと、直ちに復旧しなかったことがあげられる。 2系統の電線がダウンしたことは、2系統以上の冗長化(フォールトアボイダンス)を求めるのは過大要求と思われるが、改善の余地があるとすればそれぞれの系統は別供給とするとか、遠く離して一度にダウンしないようにするなどであろう。 停電範囲の大規模さ、直ちに復旧しなかったことは、電気の性格(発電所で集中的に生産、貯蔵不可能)から、負わざるを得ないリスクだと考えられる。小規模発電所をいくつも作ったりするより、自家発電など施設ごとのリスク低減措置を取る方が効率的である。PCに無停電電源をつなぐのも個人あるいは事務所レベルでの低減措置である。 なお、近年は、昔に比べれば格段に停電頻度が少ない(フォールトアボイダンス?)し、停電してもごく短時間で復旧する。そういったことから、電気の安定供給を前提としたモラルハザードが生じているのではないかということも考えられる。 |
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●ソニー電池回収(2006年) | |
事例に関する日経ビジネスオンライン記事 | |
●内容 ノートパソコンに使われているソニー製のリチウムイオン電池が、混入していた金属微粒子によりショートして発火するという事故が相次ぎ、アップル、デルが回収を始めた。 ソニーは充電方法に問題があるという見解を示していたが、レノボなど他メーカー、さらに国内メーカーもこれに追随し、結果として全世界での電池回収を余儀なくされた。 回収費用はソニー当該部門の年間経常利益を上回る。 なお、その後も発火事故は続き、富士通のPCの発火も報告されるに至っている。 ●考察(品質確保の観点から) 携帯機器の小型化にリチウムイオン電池は欠かせないキーテクノロジであり、ソニーはこれを世界に先駆けて商品化したことで、電話やPCといったもののモバイル市場で電源に関して絶対的地位を築いた。 世界的な品質管理スタンダードの原型は日本のQC・TQCであったように、ソニー、ひいては日本の品質管理の高さには、世界からの高い信頼が寄せられていた。 そういう中での今回の事態は、科学技術立国・日本の現状が実は大変なことになっているのではないかという疑念を持たせるに十分なものである。 急速充電を想定外の使用法というのは無理がある。寄せられている信頼が厚ければ厚いほど、より高いニーズに応えていくという力量が求められている。ソニーは品質確保体制の見直しを迫られることとなろう。 ●考察(組織の危機管理の観点から) 当初、責任の所在に否定的であったこと、発火が続いたためやむなく回収に至ったことで、ソニーの企業イメージはダウンした。 責任問題において少しややこしいのは、ソニーがバッテリーを最終製品として市場販売していたわけではなく(一部はそうしたものもあるだろうが)、最終製品を販売していたのはアップルなりデルなりレノボであったわけで、松下石油ヒーターに例えれば、ソニーは欠陥部品に係る下請け会社、アップルやデルなどは松下電器に相当するという見方もできる。ソニーが回収CMを打たないのはバッテリーが最終市場製品ではないからであり、当然であるといえる。 しかし批判は全面的にソニーに行っているようで、アップルもデルもリコールはしているものの責任については「ソニーのせい」と考えているようだ。訴訟社会アメリカではこれも当然とはいえるが・・・・ この事件では、ソニーが充電方法に問題があると主張したり、安全だと言っていたメーカーPCで発火が相次いだりして、「責任逃れ」「後手後手」の印象が強く出てしまった。ソニーもかなりの金額的な打撃はあるだろうが、企業イメージの問題も、パロマほどではないにせよ残るだろう。ソニーほどの大企業にしては、的確な対応であったとはいえない。 |
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●中国電力データ改ざん(2006年) | |
事例に関するEICネット記事 | |
●内容 中国電力の子会社である中電技術コンサルタントが、岡山県の土用ダムにおける測量データ(定期的な国への報告を法令で定められている)のうち、沈下量とたわみ量(上・下流方向の水平変形量)の異常値を、H4〜H9の間改ざんしていた。H4ではなくH3からとの情報もある。 そして、後日このことを知った中国電力も、安全性は維持できているとして関係当局に改ざんの申し出を行っていなかった。 ●考察(技術者倫理としての観点から) 改ざん内容自体は、確かに安全性にかかわる問題ではない。この点で、たとえば構造設計計算書偽造などとは根本的に異なり、技術者倫理に照らして、技術士法の公益確保責務に相当する倫理に反しているとはいえない。公共の安全に反しているとは言い切れないからである。(まったく言えないというわけでもない) それではどのような点で非倫理的行動であったかというと、NSPE綱領でいう真実性原則であり、技術士法では信用失墜行為禁止義務が該当するだろう。公衆(インフォームドコンセントを付与できないという意味での)は、専門職技術者のもたらす情報を、その真偽を確認する術をほとんど持たないから、一方的に受け入れるか、あるいは感情的に拒絶する以外のことができない。もちろん後者のようなことをしていては科学技術立国である日本は立ち行かないから、前者であるべきなのだが、そのためには技術者の側が公衆から信頼されることが絶対に必要であり、それを裏切ると次から後者のようになってしまうのである。実は「地元の奴ら、理屈が通じないんだよね」などと言っているケースは、その多くが信頼を裏切る行為をしてきた報いであるに過ぎなかったりする。 そのような信用を裏切る行為に「それは技術士がやったんだそうだ」というオマケでもついたら大変である。名称独占資格である技術士は、その社会的価値が大きく失墜してしまうだろう。 ●考察(コンプライアンスの観点から) このケースは、東電がシュラウドのヒビを隠蔽していたケースと非常に近い面がある。それで安全が損なわれるようなものではない(中電は本質的に、東電は程度的に)という判断で、法を守らなかったのである。 つまりは法が厳しすぎたあるいは改善の余地があるということなのかもしれない。それならそれで、法をきちんと守りつつ改善を提案すべきである。 ●考察(安全管理の観点から) 計測に誤差はつきものであるし、異常値は自然的要因や機械的要因など様々な要因で発生し得る。そしてそれもつきものである。それが異常値であると判断できれば、それは堂々とネグっていいはずだ。 それが許されないのは、計測というもののもつ本質的な特性が、現在の我が国における安全確保の考え方となじんでいない面があるのではないだろうか。 「絶対安全」などというものがありえないのは常識以前の問題である。結局のところ、リスクの問題なのであり、問題はその頻度と被害規模なのである。利用者あるいは許容者は、そのリスクの程度を情報をして受け取り、同意を与える(つまりインフォームドコンセントを付与する)必要がある。 しかしこのような考え方は我が国には長らくなかった。「大丈夫」といえば何が何でも大丈夫ということになっていたのである。しかしそんなことはないことくらい庶民は知っていたから、「お上」の言うことはいつも割り引いて受け取り、自己防衛をしてきた。ところが時代は変わり、お上の言うことを額面どおり受け取り、なんら備えをせずに災害などに巻き込まれる者が出てきたのである。そしてお上の側も、そういう馬鹿にまともに付き合うという愚行を働くようになり、そういう中で「一切の例外なくいつも正常でないとダメ」というような馬鹿げた風潮が生まれつつあるのではないかと思う。 他方、国民は馬鹿ではないから、モラルハザード的行為を働く者が馬鹿であることは十分知っており、多少過剰気味にではあるけれど「自己責任」という言葉も認識されてきた。マスコミが過剰に煽っているものの、これに対しても国民は馬鹿ではないから全員引きずられてもいない。 こういう紆余曲折を経て、徐々にリスクという考え方が社会に浸透し、同時に性能設計という「マニュアルがんじがらめ」からの脱却が進んだら、異常値を外に出すとマズイなどという滑稽な悩みがなくなるのであろう。蛇足ながら、その実現の最後のボトルネックとなるのは会計検査院ではないかという気がする。 |
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